恐怖の給食時間が終わるまで、あと1年?

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恐怖の給食が終わるまで1年?

今まで、私が嘔吐恐怖症になったキッカケが1975年の小学4年生のときの夜、嘔吐したこと、それ以来、小さな怖さによって、給食のパンを残すようになったこと、クラスメイトが吐くことを見て、自分がそうなったときに、嫌われんじゃないかと恐れる自分がいること、1学年上の生徒が廊下で、その担任Tからパンを口にねじ込められている光景を見てしまい、吐くこと、食べることへの恐怖心が強くなってしまったことをお伝えしました。

私が、小学5年になったとき、運よく担任はTではありませんでした!

私の担任は、男性でしたが、給食を残しても何も言わない先生でした。これで小学5年は乗り切れるぞ♬ と安心していました。小学校は残り6年生の1年間だけ。小学6年の担任がTでなければ、これで何とか乗り切れると考えていました。

幸い、先生Tは、違う学年の担任になったため、私が6年生になるとき、突然6年生の担任になることは薄いと思っていました。とはいうものの、異例な配置も目にしてきているので、心の中では、少しだけ不安を感じていました。

4歳年上の姉が中学生で、姉にそれとなく「中学校では給食を残しても何も言われないか?」と聞いていました。姉からは「中学ではそんなことまったく言われないよ。担任は、給食を教室では食べないし。女子はほとんどパンを残しているし」と聞いていたこともあり、中学でも給食を残しても問題ないぞ! 早く中学生になりたい!と思っていました。

小学5年のとき、私は給食で食べるものはおかずだけ。しかもお皿に盛ってもらうときは、配膳当番にお願いして、量を少なくしてもらっていました。このとき、牛乳は飲まず、パンは残して持ち帰りしていました。吐くことへの恐怖心は相変わらずでした。

小学5年の、ある日の給食時間で、担任の先生から「今日、誰も休んでいないのに、牛乳が1本残っているけど、どうして?」とクラスメイトに質問する。私は「ドキッ」と。あるクラスメイトが立ち上がり「それは鈴木君の牛乳です。いつも残しています」とハッキリ言う。先生が「鈴木、牛乳飲まんのか?」と。ドキドキしながら「はい」と。先生はそれ以上、何何も言わない。「ホッ」と胸をなでおろす。「(周りはキッチリと見ているもんだな)」と人目を気にする私。

小学5年は、それ以外は問題なく過ごせた。

小学6年の担任の発表。とても緊張。はやり先生Tは別の学年の担任。私は転勤してきた50歳くらいの女性が担任。「(女性でよかった。これで、小学校生活は乗り越えられた!)」と勝手に大喜びする。

しかし…。

世の中、そう甘くはないんですね…。この1年が、とっても大変な1年になるとは!

その1年で、私は完全なる恐怖症になるとは。嘔吐恐怖、食事恐怖、視線恐怖。心の中だけだった恐怖、不安が、身体まで蝕んでいくとは4月が終わって時点では、まったく頭になかった…。

小学6年5月からの話は、次回以降に話しをしますね。

その時から、すでに42年の月日が経った今現在。
あの1年があったからこそ、「これまでやってこれたんだ!」という不思議な想いがあります。正直なところ、私が40歳過ぎるまで、当時の担任に対しては、憎しみしかありませんでした。

「オレの青春時代を台無しにしやがって!」

という思いだけでした。

しかし、その経験によって、恐怖症を克服した方法を体得できたわけです。さらに、その方法を応用することによって、今でも仕事でプレッシャーがかかる場面やストレスを感じる場面でもうまく気持ちをコントロールできようになっています。

それによって、今も生き延びているのかもしれませんね。

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