「鈴木さんの場合、どこまで嘔吐恐怖症は酷かったのでしょうか?」
「症状が軽かったから克服できたんじゃないでしょうか?」
と聞かれることがあります。
正直なところ、当時、私の症状が
「酷かった」のか「軽かった」のか、それは判りません…。
ただ、
「酷い」、「軽い」に分けることが、ご自分に『裏の暗示』をしているような気がします。「酷い」、「軽い」って考えることは一般的なあることですが、病気の場合、ちょっとした危うさが含まれていると思うんですね。
そんな話をお伝えします。
まず、「酷い」、「軽い」って、境界が不透明で、漠然としていますよね?
確かに、私の場合、13年間、嘔吐恐怖症、外食恐怖症で苦しんできました。人と食事をする場面が頭によぎるだけでも、身体が異変を起こしました。TV番組で、「はく」、「もどす」、という音が耳に入ってだけでも、頭から血の気が引いたことを思い出します。吐くとは関係ない「ほうきでゴミをはく」、「棚にもどす」という疑似的な言葉でも「ドッキ」としたくらいでした。
電車に乗るもトイレとドアに近いところを陣取り、デパートや本屋に行くと必ずトイレがどこにあるか、逃げ場を探してから買い物をしていました。
そういう症状を「酷い」、「軽い」というのは、聞いた人、それぞれの判断になるかと思います。
例えば、あなたが高熱を出したとき、体温が何℃までなら「軽く」、何℃以上なら「酷い」って考えるでしょうか?そもそも、その判断は、体温だけではないと思います。体温だけではなく、その症状を自分でどう感じるか…ですよね。体温が37.3℃でも、体は「酷い状態」かもしれません。そのときの気分でも捉え方は変わってくるでしょう。
私が恐怖症で13年間苦しんだから「酷かった」とは言えません。中には30年も苦しんでおられる方もお見えになります。その方と比べると私は「軽かった」と言えるかもしれません。
何ごともですが、
あなたがどう捉えるか?
私の場合、病気を「酷い」とか、「軽い」とか線引きはしないようにしています。とくに「酷い」と考えてしまうと
それだけで重く感じてしまうこともあるので…。
恐怖症で苦しんだ当時もそうでしたが、こんなことを考えることがあります。
病院で寝たきりでベッドから出られない方、身体が自由にならず、歩くことも外にも出ることも大変な方より
「自分は普通に動けるから、まだまだ恵まれている」。
「人前で食べるのが怖いだけで、一人なら自由に出掛けることができる。まだ私は運がいい」。
当時はそう考えていました。今でも、落ち込んだり、悩んだりしたときは、そういう風に考えています。
症状を「軽い」とか「酷い(重い)」って、分けることって、、、
・「軽い」・・・治りそう
・「酷い」・・・簡単には治らない
ご自分への『裏の暗示』が含まれているような気がしませんか?
「(簡単には治らない)」と捉えてしまうと、無意識にそれが暗示になって、不思議とそうなってしまうものですね。恐怖症も「(こんなことが起きたらどうしよう!)」という積み上げからくるものですから…。